晩年の父(小堀杏奴)の概要・解説・感想

文豪・森鷗外の次女・小堀杏奴が敬愛する“パッパ”との思い出を書き残すために執筆した一冊。

晩年の父(小堀杏奴)の作品情報

タイトル
晩年の父
著者
小堀杏奴
形式
随筆
ジャンル
随筆・エッセイ
執筆国
日本
版元
岩波書店
初出
下記
刊行情報
下記

晩年の父(小堀杏奴)のあらすじ・概要

晩年の父(小堀杏奴)の目次

作者

小堀 杏奴 こぼり あんぬ(1909年5月27日 – 1998年4月2日)

随筆家。森鴎外と後妻・志げの間の次女として東京市本郷区千駄木町(現・東京都文京区)に生まれた。仏英和高等女学校に進学した1922年7月、父が死去。1931年、弟・類とともに画家藤島武二に師事。一緒にフランスに渡り、パリで洋画を学ぶ。1934年11月、藤島武二の仲人で画家・小堀四郎と結婚。1998年4月2日、88歳で死去した。

晩年の父(小堀杏奴)の刊行情報

  • 『晩年の父』岩波書店、1936年2月
  • 『晩年の父』岩波文庫、1981年

晩年の父(小堀杏奴)の感想・解説・評価

“パッパ”との思い出を記した手記

本書は鴎外の三番目の子どもとして生まれた杏奴が父との思い出を書き留めておくために記した手記となる。森鴎外というと、「漱石と並ぶ明治の文豪」「陸軍軍医総監」というお堅いイメージがあるかもしれないが、本書の鴎外は子どもに笑いかける優しい人物として描かれている。

杏奴がこの手記を書いたのは25、26歳のときのこと。父・鴎外は彼女が13歳のときに亡くなってしまっているが、「出来るだけ父の事について書き残して置きたい」との思いから執筆を決意したとのことだ。画家の小堀四郎と結婚した前後の時期で、自分も結婚し子どもが産まれるということから父親の事を思い出したのかもしれない。

手記の中の杏奴は今風に言えば、まだ小学生や中学一年生。父親とも遊びたかったのに、一緒に外を走ったりはしてくれないし、「泳げない」と話す父親の姿に不満も抱いている。いたずらしたい盛りで、鴎外もそんな娘の事を可愛がっている様子が伝わってくる。

「父は何時も静かであった。葉巻をふかしながら本を読んでばかりいる。子供の時、私はときどき元気な若い父を望んだ。自分の細かいどんな感情をも無言の中に理解していてくれる父を無条件で好きではあったが、父はいつでも静かだったし、一緒に泳ぐとか走るとかいう事は全然なかった。何んでも父と一緒にやりたかった私には、それがひどくつまらない気がした。」

晩年の父より

父と一緒に地理や歴史の教本から抜き書きしてオリジナルの教科書を作ってみたり(これは 杏奴の没後に発見され公開された)、弟と一緒に電車の停留所へ仕事終わりの父を迎えに行ったりと可愛らしいエピソードに溢れた一冊になっている。

子どもっぽく素直で客観的な父親像

夭折した次男・不律を除き、長男・於菟、長女・茉莉、次女・杏奴、三男・類の四人はいずれも父親についての文章を残している。

父と過ごした日々が若く、また手記を執筆したのが二十代と若かったこともあってか、杏奴の文章はもっとも素直で子どもっぽい。その素直さから母親の言ったことをそのまま書き写した面もあったようで、客観性を持っているのが微笑ましくもある。自分以外の人が父親について書いたものを相当読んでおり、読者の視点を持っていたためだろう。

兄弟姉妹のうち、茉莉のものがもっとも父親への愛が伝わってくる気がする。文筆活動を始めたのが、50代からと遅かったこともあってか、しっかりとした文章で父親への愛を綴っている。

一方、類は鴎外について暴露していることもあり、赤裸々。読み物として瞬間のおもしろさは一番だ。

とはいえ子どもたちの視線から見る鴎外の姿は様々。子煩悩な良い父親だったようだが、読み比べてみるのもおもしろいと思う。

合わせて読みたい本

茉莉が食について書いたエッセイをまとめた本。食に対する造詣が深いだけではなく、文学に対する知識も豊富。結婚前、“森家”に住んでいたエピソードも含まれている。
詳細貧乏サヴァラン

晩年の父(小堀杏奴)の評判・口コミ・レビュー

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